ペンギンフェスタ2012参加作品
 夏の匂い
 
 夏の匂いがする。
 それが何の匂いなのか私は知らない。
 深緑の匂いなのか、小さくて食べるにはまだ早すぎる青い果実の匂いなのか、あるいは南の風に乗ってやってきたどこか見知らぬ異国の匂いなのか……。
 だから私はその匂いを『夏の匂い』と呼んでいる。
 夏の匂いが毎朝たちこめるようになると、私はそわそわし始める。
 夏は新しい出会いの季節。
 だって、私だけじゃない。みんなそうだもの。私だけじゃないもの。

「ねぇ、別れたいって本気なの?」
 彼は少し驚いたように風にそよいだ。
「……うん。ごめん」
「どうして? 理由を教えてくれるかな」
 彼は腑に落ちない様子で問う。
「……言ったら怒るよ。だから言わない。お願い訊かないで」
 私はうつむいた。彼の悲しそうな様子を見ることができなかったからだ。彼は問い詰める代わりに、ぽつりぽつりと言葉を紡いだ。
「君は……忘れちゃったの? 雪が降ったあの夜のこと……。君の傍に居てあげられるのは僕だけなのに。君の事を守ってあげられるのは僕だけなのに。どうして?」

 寒い夜だった。確かに彼がいなければ、私はあの夜を越せたかどうか分からない。
 寒くて、食べるものもなくて、ただ寂しくて……。温かい手を差し伸ばされたら、それこそ誰にでも付いて行っていたかもしれない……そんな危うい孤独な夜。
 そんな夜に、彼は私を温かく包んでくれた。
 ――大丈夫。僕が抱きしめていてあげるから。お日様が出るまでの辛抱だよ。お日様は絶対にまた登るから。だから大丈夫なんだ。それにね、自分では気づいていないかもしれないけれど、君はとっても強いんだ。これくらいの寒さなんかに絶対負けないよ。
 彼はそう言って一晩中励ましてくれた。
 彼がいなければ一日だって生きていけない。私はそう思ったし、実際そのとおりだった。

 私は申し訳ない気持ちで胸がいっぱいになって、彼にそっと唇を寄せる。
「君はいつだって僕を気持ちよくしてくれる。心から感謝しているし、愛してもいる。だから、考え直してくれないか? 君を失ったら僕はどうしたらいいのか分からないよ」

 ――君が噛んだり舐めたりしてくれると、僕はとても気持ちが良いんだ。
 彼はよくそう言った。彼が誠実なことは百も承知だ。私だって彼の事が大好きだ。だから求められれば何でもした。

「このままずっと、死ぬまで一緒に居たいと……居られると思っていたのに……」
 かつて、彼の気持ちと私の気持ちにズレはなかったはずだ。それなのに……。
「ごめん……なさい」

「僕と別れたら君は後悔するよ」
「ええ、そうね。きっと後悔するわ。冬が近づいたら絶対後悔すると思う。あなたの温もりを思い出して……きっと泣くわ」
「それが分かっていて、どうして別れようなんて言うの? さっきは理由を訊かないつもりだったけど、やっぱり納得できないよ。どうして別れたいのか教えてくれよ」
 いつも温和な彼が声を荒げた。

 これ以上理由を言わないなんて無理よね。私は観念して顔を上げた。
「季節が変わってしまったの……」
 抗うことのできない絶対的な力に押しつぶされそうな気持で、私は言葉を紡ぐ。

「……季節が変わったから僕のこと、嫌いになったの?」
「嫌いになった訳じゃないわ。今でも好きだもの」
「じゃあ、何故?」
「言っても怒らない?」
「……怒らないよ。約束する」
「あなたがクールじゃないからよ。暑苦しいあなたに、私もう我慢できないの」
 私の言葉に彼は絶句した。

 その時突然、丸くて白いローラーが私の体の上を転がった。絶句したままの彼を絡め取って行く。
「さよなら、冬毛さん。また寒くなったら会えるよね。再生するよね?」
 私は泣いた。とっても心細かったから。

 その時、再び声が聞こえた。
「泣くなよ。俺がいるだろ?」
 新たに生えてきた夏毛だ。
「俺がおまえを涼しく過ごさせてやるし、守ってもやる。あいつのことはもう忘れろ」
 頼もしそうな彼の言葉に私はにわかに嬉しくなって、ピョンと跳ねた。

 夏の匂いはますます濃密になって、新しい恋の予感に私は耳を震わせた。


(了)



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