面会人だと言われて留置所から出されたのは、もうすっかり陽が落ちた頃だった。案内された部屋のソファには見知らぬ若い男が座っている。鋭い瞳に鋭い顎、何もかもがシャープでひどく冷徹な雰囲気の男だ。私が部屋に入ると、意地悪そうな眼つきでじろじろと私を見つめる。泣きつかれて眠ってしまっていた私の眼は、鏡を見るのが怖いくらいに腫れていた。
――私の顔がそんなに面白い?
私は少しムッとしながらその男を睨みつける。どう見ても味方には思えなかったからだ。
「あなたが西島紫苑さん?」
男が口を開く。深い良い声だった。その怖そうな顔さえなければ……。
「そうです」
不機嫌なままぶっきらぼうに返事を返す。
「私は沢井七瀬(さわい ななせ) と言います。警察から社の方に連絡が入ったので来ました。専務の沢井の息子です。が、羽島会長の専属医師でもあります。以後、お見知りおきを……」
差し出された名刺を、私は呆然としながら受取った。湊さんの会社関係者に会うのは初めてだ。
かつて湊さんが立ちあげた会社は、かなり大きくなっていた。しかし表立って活動できない彼は、会社運営の実務のほとんどを、現在、沢井専務に任せていた。なにせ湊さんはゾンビなので、年を取らない。戦後すぐに立ち上げた会社の創設者が、どう見ても三十代前半にしか見えないのは、非常に不都合だったのだ。
「お医者様……」
こんなにとっつきにくい感じで医者が務まるのだろうか。小児科や心療内科じゃないことは確かだろうと、しげしげと名刺を見て本人を見て更に名刺を見て……を繰り返す私に、七瀬は苦笑する。
「日頃は医師業をしている訳ではありませんよ。だから言ったでしょう? 羽島会長の専属医師なのだと……。今から羽島会長の面会に上がります。あなたもご一緒したいのじゃないかと思ったのですが……」
「そうだっ、湊さんは無事なんでしょうかっ?
解剖されてしまったんじゃないだろうか。
「ご無事ですよ。あなたは警察に連行された時点で、すぐ沢井に連絡するべきだったのです。そうすればここまでひどい目に遭わずに済んだ」
――何か問題が起こった時には、沢井専務に相談してください。
以前、湊さんからそう言われていた。だけど動転し過ぎていて私はそれを忘れていたのだった。
死体安置室に置かれていた湊さんは冷やされていて、びっくりするくらい冷たくなっていた。顔には白い布が被せられている。
「湊さん……湊さん、起きてくださいよぉ〜」
駆けよって白い布を取り去り、肩をゆすった。冷たい顔を何度も手で擦る。再び涙がぽたぽた零れて、湊さんの頬にいくつもの涙の筋を描いた。
「さて、感動の対面はそのくらいにして、私に仕事をさせてもらえませんかね」
少し呆れたような声が背後から聞こえる。
――あ、沢井さんの存在をすっかり忘れてた。だけど、感動の対面だなんて、そんなんじゃないのに……。
少し決まり悪い思いをしながら後ろに下がると、七瀬は手持ちの黒鞄から何か液体が入った試験管を取り出した。そのゴム栓を湊の鼻先で開けると、軽くあおる。
途端に湊の睫毛が揺れて、ゆるゆると目を開いた。
湊は少し腑に落ちない表情で七瀬を見、更に困惑した表情で紫苑を見、ガバリと起き上って回りを見回した。
「ここは、どこですか?」
「こんばんは。会長。ここは死体安置所です。あなた、もう少しで解剖されるところでしたよ?」
試験管を片づけながら七瀬が肩をすくめる
「あぁ……、何か、あったんですね」
泣き腫らした目を更に涙で濡らしながら立ちつくしている紫苑を、気の毒そうに、そして少し哀しげに湊は見つめた。
◆◇◆◇
「あれは招霊木の花の匂いなんです」
ようやくのことでマンションに辿りついて、コーヒーを淹れながら訊いた紫苑の問いに七瀬は事もなげに答えた。
「おがたま……ですか?」
「といっても、これは唐種招霊木の匂いです。そっちの方が効き目が良かったので、花の季節に関係なく使えるように匂い成分を抽出してあるのですよ」
匂ってみますか? と問われて嗅いでみると、それは甘いバナナのような匂いがした。
「七瀬、すまなかったね」
湊が謝ると
「会長、私に謝罪など必要ありませんよ。これが私の仕事なんですから。それに、かねてより気になっていた西島さんにお会いできましたしね」と言う。
そして七瀬は紫苑に向き直り続けた。
「西島さん、会長と一緒に居れば、何かと不都合なことも起こるでしょう。私の父は忙しい人ですから連絡をとっても掴まらない場合があります。そんな時には、私に直接連絡をください。私は大抵、会社の研究室の方におりますからね」
そう言いながら、七瀬は手帳に携帯の番号を書きつけるとビリリと切り取って、紫苑にその紙を手渡した。
「あの……本当にありがとうございました」
紫苑は深々と頭を下げた。そして心の中で謝る。
――さっきは、怖そうな顔とか、意地悪そうな眼つきとか心の中で言ってごめんなさい。
「七瀬、どうして紫苑さんに、会ってみたかったんですか?
怪訝そうに首を傾げる湊に、七瀬は唇の片方を引きあげて嫌な感じで笑って答える。
「ゾンビの会長と一緒に暮らす若い女って何が目当てなのかと、ちょっと興味があったのでね。金目当てか、地位目当てか、単なるもの好きか、それとも何か別に理由があるのか……」
七瀬の言葉に私は瞠目する。
「少なくとも金や地位目当てではなさそうですね……ってことは、単なるもの好きってことですかね?」
呆然としている私に七瀬は意地悪気に笑いかけた。
――なんとゆー暴言。やっぱりこの人、嫌なやつじゃんか。私、ちっとも悪くなかった。ごめんなさいは撤回!
心の中で悪態をつく。
一方、湊も七瀬の言葉に顔を顰めた。しかし、
「七瀬、もう少し、柔らかい言い方を、したらどうですか? あなたは小さい頃から、ちっとも変わらない……女の子に、嫌われますよ?」
などとのんびり言うものだから、ぷしゅーと毒気が抜けてしまう。
――湊さん……そんな内容をどんなに柔らかく言ったって、嫌味以外の何モノにもならないと思いますが?
あの後、死体安置所から歩いて出て来て、しかも、ご迷惑をおかけしましたね、などとのんびり謝罪する湊に、警察官たちは顔を引き攣らせた。彼は特殊な持病をもっていて、たまに深く昏倒すると死体のようになってしまうのです、と七瀬がもっともらしく説明してその場は収まった。<br>
医師の肩書きの威力はもの凄い。どんなに嫌味な人でも、今の湊にはなくてはならない人だ。
紫苑は七瀬の暴言を聞き流すことにした。
――私は、大人だからねっ。
「は」を強調して心の中で呟く。
七瀬が帰って、いつもの静けさがリビングに戻ってくると、ようやく紫苑の緊張がほぐれてきた。ソファに座ったまま顔を両手でごしごし擦って脱力する。この場でこのまま丸まって眠ってしまいたい程度に疲れていた。
――良かった。無事にこの場所に湊さんと一緒に戻って来れて……本当に良かった。
「紫苑さん、すっかりご迷惑をかけてしまったようですね」
そんな様子の私に湊さんがすまなさそうに、しかし何故か緊張気味に声をかけてきた。
「いいえ、私ってば色々気がつかなくって……。迷惑をかけてしまったのは私の方です」
もっと早くに検問に気づいて迂回していれば良かったのだ。あるいは連行された時点で沢井専務に連絡をしていれば……。なによりも、脱走ペンギンを見に行きたいなどと言いださなければ良かったのだ。
「紫苑さん!」
パソコンを覗きこんでいた湊さんが突然声を上げた。
「どうしたんですか?」
「あのペンギン、捕獲されたそうですよ」
――え?
慌てて湊さんが開いている画面を覗きこむ。記事によると、ペンギンは今朝、水族館の職員によって無事保護されたらしい。しかもペンギンは、逃亡中にエサを獲る為にかなり体力を使ったらしく、筋肉モリモリのマッチョペンギンになっていた、と書かれていた。
逃げ出したペンギンは、たくましく生きていたんだ。追手から逃れ、自分を養い、もしかしたら同じように広い海を泳ぎ回っている仲間がいないかと探していたかもしれない。逃げ出したペンギンは鑑定の結果雄だと言うことが分かったと記事に書かれていた。
「あ、そうだ。私、あの招霊木の匂いエキスを少しもらっておこうかな。そうすれば、湊さんの意識が戻らなくて困った時もへっちゃらだし」
私の言葉に湊さんがどこかほっとした様子で柔らかく微笑んだ。
「良かった。今回のことでこりて、ここを出て行きたいって、言われるんじゃないかと、密かに、緊張していました」
私は座っている湊さんの背後から手を回して抱きしめた。匂いを嗅いだだけのはずなのに、湊さんからはふわっと招霊木の甘い匂いがする。
「むしろ逆ですよ。一緒に居られる間は、絶対に離れないって……そう思いました」
そう、ゾンビと暮らしている人が他に誰もいなくても、単なるもの好きだと揶揄されても、私は私。自分の気持ちに正直に生きるしかない。だって私は湊さんの傍にいたいんだから仕方が無い。あのペンギンが大海原を泳ぎ回りたかったように……。
――だから、私も行けるところまでいくよ。
『大事だと思っている世界なら自分自身で守りぬきな。 俺もやるだけやったぜ。おまえも頑張れよ』>
パソコン画面に映し出されているマッチョペンギン氏がフリッパーをパタパタ振っているのが見えた気がした。 |
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